皮なめし職人

本作はエライネ・ビラール・マドルーガによる寄稿。
経済的困窮に陥ったフランスに住むある家族。日々の生活もままならない。一家4人の空腹を満たすこともならず、家賃を滞納しているので立ち退きの危機を迎えている。そのうえ、息子が成長するにつれ、出費が必要なある事情がある。そこで家族がとった解決策とは。

Text by Elaine Vilar Madruga
Translation by Kamei Toshiya
Photo by Ekrulila from Pexels


「あんた、自分の子どもに飽きたみたいだね。何を考えているのか知らないけどさ、あんたがほっつき歩いている間、アタイが子どもたちを飢え死にさせるとでも思ってるのかい?」嫁さんの怒鳴り声。数カ月前にフォービスタ周辺で人口過剩を片付けちまった熱病よりもひどい。また怒鳴り声。ダ・ヴィンチとティツィアーノよ、俺を許せ。女どもは地上で最も忌まわしい創造さ。嫁さん、俺の背後から離れようとしない。シミ。伝染病のように顔全体に広がるヒマワリの入れ墨。黄色。ゴッホは、ポスト印象派カーストに属する良妻の鑑だ。「黙れ、お前。子どもたちが怖がってるじゃないか」俺は大声をあげる。赤いランタンから漏れる光が眩しい。

ピカソジュニアとヤニゴーギャンは麻雀を打っている。俺たち夫婦の喧嘩にはすっかり慣れっこだ。母ちゃんの叫び声。父ちゃんのため息。それでもあいつらが静かにしてくれているのがせめてもの救いだ。ピカソジュニアはそろそろ入れ墨を入れてもいい年ごろだ。顔にインクを入れるのも、身分証明の一部さ。でも、息子にまだ何も贈り物らしいものをしたことがない。こんな賃金じゃ、ろくな暮らしはできないからな。空きっ腹を満たすにも不十分。このアパートの管理人のゲルニカのクソ野郎にも家賃を払えないありさまさ。立ち退きとはいつも背中合わせだし。それでもジュニアの奴、文句ひとつ言わんさ。いい子だよ。兄の愛情をこめて、ヤニゴーギャンの相手をしているよ。可愛い妹に遊び方を教えているのさ。責任感に満ちた息子の表情は切ないほど深刻だ。蠅のホログラムを投影し、空中に飛ばしている。それを見てヤニゴーギャンは微笑む。

「ジュニアが哀れでしかたないよ。そろそろインクが必要な年頃だね」 嫁さんの言葉が靴音と重なる。相変わらず非難は続く。「あんた、自分の息子を追われ者にするつもりなのかい?  身分証明のない子、カーストなしの少年、異教徒と区別する印もない子」そいつは俺も御免さ。ピカソジュニアは一瞬頭を上げる。ヤニゴーギャンもそれに続く。少なくとも、この娘はまだ何も理解できないほど幼いんだ。「あんた、そのために子どもが欲しかったのかい?  そのためにアタイを孕ませたのかい?」 嫁さんの顔のヒマワリが揺れて見える。目眩。吐き気がする。どうしてこんな女と寝ちまったのか。以前はこの女の顔に咲く黄色い「病気」でさえ、魅力的に思えたものだ。こいつの形のない庭園には正気の奴は誰も足を踏み入れたことがない。もちろん俺を除いてはな。

「ゴッホ。もうやめてくれ」と俺は懇願する。絶望の表情を見せたつもりだったが、この女は黙ることを知らん。

「やめろって、それはないだろ」と嫁さんは怒鳴る。「哀れな息子をごらんよ。長男なのに入れ墨なしなんだよ。通りすがりの人は振り返るだろうよ。他人様があの子を見たら、どう思うのかわかるかい? 捨て子さ。みなしごだよ」

ヤニゴーギャンはとうとう部屋の隅で泣きだした。哀れなせがれ。入れ墨を入れておらず、危険な場所で働いている捨て子の変わり者よ。息子は妹を抱きしめた。「父ちゃんと母ちゃんは言葉の麻雀をしているだけさ。すぐにすべてが元に戻るさ」と慰めている。

「お前、何が気に食わない? 何だっていうんだよ、ゴッホ」嫁さんの肩を揺さぶったが、涙を見て後悔した。「ゲルニカに一家ごと追い出されたいのかい? 家賃の支払いが遅れているの、忘れてやしないだろうね? あんた、入れ墨なしどころか家なき子の父ちゃんになっちまうよ」

そう言ったきり押し黙った。やれやれ、神々に感謝。ところが、ふと見ると涙がゴッホの顔のヒマワリから流れ落ちている。

「皮を売ったらどうかね」と嫁さんがおもむろに口を開いた。この女、落ち着いているように見えるが、それは見かけだけだ。冷静さの下に、何かがくすぶっているのが見透かせて、少し動揺する。嫁さん、話を続ける。「あんたの皮かアタイの皮。どっちでもいいだろう。アタイのヒマワリ、金になるだろうね。アタイの顔」

イメージが脳裏に焼き付く。なめし職人の刃物で捌かれる嫁さんの顔。そんなこと想像したくもない。剥がされた皮。永遠に干からびちまったヒマワリ。嫁さんの死。

「古い話になるが……一度……」声が枯れる。それでも俺は続ける。「皮を剥がされた奴を見たことがある。地下鉄の駅で物乞いしていた。みんな、奴に背を向けていた。そいつ顔なしさ。残ったのは血痕だけ。そんなひでえことをするのは、キュビストの連中くれえのもんだ」

嫁さんが十字架を切る。嫌悪感を隠さない様を脇で見ていると笑いたくなる。一緒になって20年経つが、俺はキュビストの街との境界線を越えたことがない。奴らのことを考えただけでも吐き気がする。幾何学的な形の入れ墨を入れたあいつら、本当に汚らわしい奴らだ。

「お前が皮を売ることはない」嫁さんに言う。「俺に考えがある。ジュニアの入れ墨はどうにかする。心配するな。約束だ。そしてヤニゴーギャンも、年頃になったらな。頃合いを見計らってな。あの娘はまだ幼いんだから」

ゴッホは微笑んで、娘を見つめる。まだ幼くて本当によかったよ。10年後まで、入れ墨はいらんさ。その頃までには、ピカソジュニアの入れ墨の出費による経済的打撃から回復しているだろうさ。そうでも思わなければやっていけない。

「あんたに任すよ」とゴッホは思慮なく言う。ヒマワリはもはや涙で汚れていない。「だけどすぐじゃなきゃいけないよ。ジュニアを入れ墨なしで外に出すわけにはいかないんだから」

確かにそうだ。だがその必要はない。言葉の背後にある沈黙が何を意味するかは百も承知だ。口に出せることと出せないこと。子どもたちは俺だけが頼りだ。どこの父親が長男の顔と命を皮なめし職人に渡すものか? せがれの皮が引き裂かれるのを黙って見ているものか? どこの親父が、入れ墨のない者をあからさまに軽蔑し憎悪をぶつけてくる奴らから守ろうともせずに、息子をみすみす安賃金の工場で働かせるだろうか?

「俺を信じてくれ」決めぜりふのように俺は言う。ゴッホの頬のまだ濡れているヒマワリにキスする。息子と幼い娘の入れ墨のない頬にキスをする。

「起きて待っていようか?」 ゴッホが尋ねる。ロマン主義とロココの街で召使いとして働く俺が夜遅くなり、ときには明け方まで留守にすることは承知のうえだ。

哀れなゴッホと嫉妬。ロマン主義とロココの街にうろちょろしている女たち、ブーシェ、フラゴナール、ドラクロワの均衡のとれた美しさの完璧なレプリカの前にいることを想像している。俺みたいな奴はひざまずくだけで夢を見ることなんてとうていできない、近所に住む金持ちのお嬢さんたちをいつも羨望のまなざしで眺めているだけだと嫁さんは思っている。

「子どもたちを寝かせてくれ。お前も先に寝ていいぞ。俺を待っていてもしょうがねえよ。遅くなるからさ」

嫁さんの返事を待たずに、アパートの部屋を出る。9日も経つのに、エレベーターは故障のままだ。ドアが怪物の口のように開いている。22階から階段を下りる。たちまち心臓がはちきれそうになる。月日が経ち、時の流れに置き去りにされ、年を重ねるごとに貧しくなる。12階で、ロココの街に住む綺麗な女の子のことを考え始める。女どもの入れ墨。それに顔。いつも引っ張りダコのブーシェの女たち。フラゴナールの女たちは、いつも男をからかい、うっかりグラスを倒すと指を差しやがる。嫌な女どもだ。勃起のおかげで、心臓が潰されそうだ。入れ墨なしで出歩くことがどんなに危険なのか想像したこともないアバズレどもめ。それというのも、現実世界と8つの仮想世で最高の芸術家によって子宮内であいつらの顔が彫刻されたからだ。俺んちのジュニアのように工場で悪夢の夜を過ごしたことのない雌犬たち。俺の哀れな嫁さんのように食べ物のないオーブンの前にいることもなければ、俺のように割れたグラスの欠片を拾うこともない。素晴らしい皮を持つ美しい雌犬ども。俺の家族全員の命以上の価値がある奴らの皮。外は、夜は、キャンバスに塗られた油、ゲロの塊さ。星はほんの少しに過ぎず、都市上に群がる人工衛星やボットと見分けがつかねえときてる。

刃先がパルミジャーノの女の皮に触れた。女は叫んだ。すべての聖母がそうするように、女の不均衡に長い首は震えていた。二人の男が黙って見つめる中、皮なめし職人は皮を切り始めた。誰もがマスクを着用していた。他人の好奇心や裏切りの可能性から自らを守るため顔を隠しているのだ。女の悲鳴。冷血。数分後、抵抗をあきらめた女は意識を失った。

「急げ」誰かが言った。薄暗い地下室の照明の下では、精密な作業することは非常に困難だった。さらに、それを迅速に行うことは不可能だった。

「冗談じゃねえ」と皮なめし職人は言った。「こんなんじゃ仕事にならん」

「たわごとを言うと、承知しねえぞ」

皮なめし職人は、極力丁寧に皮を取り除いた。皮膚を傷つけたり、入れ墨に穴を開けたりすることはなかった。不本意ながら、彼は刃物を持たせると真の名人だという評判だった。

「仕事完了だ。幾らだ? 俺に幾ら払うつもりさ?」

「ブツを運んでいるのは俺たちだぜ」と一人が不満気に吐き捨てる。

「汚い仕事をしたのは俺だ」と皮なめし職人は言い返す。「気に入らねえなら、いつでも手を引くぜ」

脅しは効果的だった。誰もこの街で最高の皮なめし職人を敵に回すつもりはなかった。連中は黙って彼に金を握らせた。金勘定をしたが、まさしくはした金だった。だが、只よりましだと思い直す。これも家族のためだ。もちろん金を受け取っても礼など言わない。金銭交渉も嫌だった。皮を剥がされた血だらけのパルミジャーニーノの顔なし女から視線を逸らした。

夜明けまで数時間あった。皮なめし職人は人っ子一人いない通りを歩いた。皮を剥がす地下室のある工場は、遠くの鉄色のしみに見えた。最後に、建物に辿り着いた。楽しき我が家。エレベーターはまだ故障中。22階まで階段を上る。ドアをノックした。三回ノックの合図。ヒマワリの入れ墨の女が笑顔でドアを開けた。

「遅かったね」と不満を隠そうともしない。

「今度の娘、大変だったよ、母ちゃん。皮、硬くてさ。パルミジャーノの子だよ」

「それで稼ぎは?」それが唯一重要な質問だった。

ピカソジュニアは、工場で稼いだはした金を見せた。「ないよりましさ」と母ちゃん。「これで入れ墨の代金になる。デザインについて考えたかい?」

ピカソジュニアは無言でうなずく。母ちゃんは幸せそうだ。

「余りで、妹にホログラムを買ってやるさ。 それから、父ちゃんの靴下も。今使ってるのは穴だらけだからね。可哀そうな親父。父ちゃんをだますの嫌いだ。工場で賃金の昇給なんて辻褄合わないし。いつか親父も気づくだろうね。バカじゃないから」とピカソジュニアは言った。

母ちゃんのヒマワリは輝いていた。彼女は微笑んだ。

「ああ、ジュニア。お前は心配しないでいいんだよ。 結局のところ、家族を支えるために誰かが汚い仕事をやらなければいけないのさ。あの人ができないなら……」

そう言ったきりゴッホはしばらく沈黙していたが、やがて思いつめたように口を開いた。

「……ちょっと聞いておくれよ。13階にさ、象徴主義者の女が引っ越してきたんだよ。どうも一人暮らしのようだね。カーストから追放されたんだろうよ。おそらく反逆者だろう。そんな奴、いなくなっても誰も捜しやしないさ。あいつの皮、いくらで売れると思う?」

「そんなに金にはならないさ」とジュニアは素っ気なく答える。「何かの足しにはなるけどね」

ヤニゴーギャンが、マットから立ち上がって寝ぼけ眼をパチパチさせながら兄に近づくと、まだ血と皮の破片で汚れている刃物を握り静かに拭き取った。

「父ちゃんのためにコーヒーを沸かすからね」と母ちゃんは言う。「哀れな男だよ。あれだけ一生懸命に働いても、ろくに稼ぎもないんだから」

部屋の隅で、散らかった麻雀牌と壊れたホログラムの下に、ヤニゴーギャンは刃物を隠した。 窓の外には太陽が昇り始めていた。出来損ないの赤いランタンはもはや不要だったので、 母ちゃんは一息で明かりを消した。

(了)

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Elaine Vilar Madruga

エライネ・ビラール・マドルーガは1989年キューバのハバナ生まれの詩人、小説家、劇作家。世界の様々な雑誌、アンソロジーに寄稿。Culto de acoplamiento (2015), Sakura (2016), Fragmentos de la tierra rota (2017), El Hambre y la Bestia (2018), Los años del silencio (2019)など、著書 30冊以上。短編と詩をThe Bitter Oleander, The Café Irreal, Fantasy & Science Fiction, MithilaReview, Theaker’s Quarterly Fictionなどに寄稿。

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