稲田一声「あなたがさわる水のりんかく」 – 『Sci-Fire 2020』

『Sci-Fire 2020』収録作「あなたがさわる水のりんかく」を公開します。
なお、この作品には自殺・自傷行為、拷問、犬の死に関する表現が含まれます。(筆者より)



あなたがさわる水のりんかく



「――はいっ。えーっと、みなさん、お久しぶりです。いぬいタツミ、ただいま戻ってまいりました! 今日から完全復活です! 長い間、ずっと僕のことを待ってくれて、ほんと、本当にありがとうございます。とってもうれしいです。応えないといかんなって思います。これからまたどんどん配信していきたいと思いますので、どうかなにとぞ、ひらに……ひらに? 違うな何だっけ……、後生ですから? とにかくお願いしまっ!」
 そのような、いまいち締まらない挨拶で乾タツミの復帰配信ははじまった。
 元気そうな姿をふたたび見ることができた喜びに、私は思わず天を仰いだ。いや、これではタツミが見られない。あわてて顔を正面に戻して、HMDヘッドマウントディスプレイのずれを直す。ついでに後頭部のバンドの締め付けも調整した。
 元気そうな姿といっても、目の前に映っているタツミの表情はまったく窺えない。そもそもタツミは人間のかたちをしていない。一抱えほどある、白くてつるんとした立方体のアバターだ。顔も手足もついてない。黒い地面と灰色の空とで構成された簡素なバーチャル空間の中心で、ふわふわと宙に浮いている。
『待ってた!』
『復帰めで!!』
『おかえりなさい!』
 視界の左下から、湧き出るようにつぎつぎとコメントが表示されていく。
 黒と灰色の世界に、アバターは乾タツミただひとり。他の配信参加者はみな姿を持たない存在だ。そういう仕様でないと、そこらじゅうアバターで埋め尽くされて何も見えなくなってしまう。同様の理由で、声を出すこともできない。アバターのない参加者にできる数少ないアクションは、コメントの投稿や投げ銭、それに視点移動くらいだ。相手は立方体だから、どこから見ても似たようなものだけど。
 それでも立方体の正面、すなわちタツミの声が聞こえてくる方向はひとつに決まっているので、私はその面と向き合う位置を陣取っている。配信中、ほとんどの参加者は私と同じ位置にいるだろう。姿を持たないので、重なり合っていても何ら問題はない。
『まにあった』『めで!』『復帰配信おめでとうございます。』『これお祝いです!』『ちょっと角が丸くなったような気がする』『めで』『今日はいつものやるのかな』『めで』『めで』『豆腐代』『今はじまったところ?』『おかえり!』『特に変化なくね?』『復帰おめでとう!』『めで!!』『めでめでめで』『めでめでめでめでめでめでめでめで』
 復帰配信の序盤だからか、祝福の言葉や投げ銭が大量に送られてきており、過去のどの配信よりも流れるスピードが格段に速い。速すぎてぜんぶ読みきれないほどだ。かろうじて分かるのは、ほとんどのアカウント名の末尾に白い四角と犬の絵文字がついているということ。乾タツミのファンであることを示すしるしだ。
 私の心のこもったお祝いのコメント『乾タツミさん復帰おめでとうございます。この日が来るのをずっと待ち望んでいました。ここでしか味わえないコンテンツをこれからも楽しみにしています。あっでもどうか無理だけはなさらないよう・・・』も、一瞬視界に入ったかと思ったらあっという間に消えてしまった。
「うわ、勢いえぐっ……、みんなありがとう!」
 あまりの流速に当人も驚いたようで、立方体が小刻みに震えていた。
 このように乾タツミの配信スタイルは、ぱっと見、ひとむかし前に一般的であった動画配信とそれほど変わらない。かつてスマートフォンの画面上にあったものがそのままバーチャル空間に置き換わったような感じだ。だから、初見の人からしたらバーチャルの意味が全然ないように見えるかもしれない。先ほど飛ぶように消えていった私の長文コメントも、ずいぶんと大げさに聞こえたかもしれない。
 それはちょっと違う。
 見聞きできる範囲では確かにそうかもしれないが、それ以外は違う。
 なぜなら、このバーチャル空間で乾タツミが配信するのは『触感ASMRコンテンツ』だからだ。
「今日はいつものあるの? って質問が何個か見えたような気がするけど、もちろんあるよー。みんな、手袋の用意忘れずにね」
 そう言われた私は、すでに装着済みの、指先から両肩までひとつながりになっているグローブをよく揉んで肌になじませる。しっかり密着させておかないと、充分に触感ASMRを楽しむことができない。
 ASMR――直訳で自律感覚絶頂反応Autonomous Sensory Meridian Response――という言葉がインターネット上で浸透しはじめたころ、それはもっぱら聴覚や視覚への刺激によるものを指していた。たとえば、雨音や川のせせらぎ、焚き火のパチパチ燃える音と映像で心がリラックスするとか。咀嚼音や囁き声、耳かきを再現した音声を聴いてぞわぞわした気持ちになるとか。石鹸をナイフで薄く削ったり大量のスライムを握りつぶしたりといった特異なシチュエーションを音声と映像で味わって、不思議と癒されるとか。ASMRと言えば、そういった音声・映像がトリガーとなってある種の奇妙な心地よさが引き起こされる現象のことだった。
 だけど乾タツミは、聴覚でも視覚でもなく、触覚をメインとした。
 このバーチャル空間で、いろんな触り心地を機械的に再現して私たちに提供してくれた。
 もともとASMRの定義には触覚がトリガーとなるものもちゃんと含まれていたのだが、コンテンツとしてはほとんど存在しなかった。入出力の手段がなかったからだ。それがVRゲーム市場の拡大やハプティクス技術の発展などにより、多くの人がHMDだけでなく触覚デバイスも持つようになったおかげで、乾タツミのような個人の配信者でも触覚やそれに関連した感覚データを配信できるようになった。ちなみに、乾タツミ自身のポリシーとバーチャル空間配信サービスの規約により、タツミが配信する触感ASMRコンテンツは全年齢向けのものに限られている。
「そうそう、今日お披露目するのは新作だよ。録触機器も新しくしたからすっごいよ。さて、今回はいったいどんな手触りでしょう? ヒントは『ちょっと懐かしいもの』です」
 毎回、その日の触感をクイズ形式で発表するのがいつもの流れだった。
 コメントの速度も落ち着いてきて、ようやくひとつひとつが判読できる状態になっていたけれど、正解者はなかなか現れなかった。タツミがコメントを読み上げては「残念、はずれ~」と四角い身体を左右に揺らすのがしばらく続く。私の『縄文土器』という回答も不正解、というか不発だった。まあ、分かってはいた。
「……あれ、もしかしたら、今の若い子は知らない、のか、な? もう十五年も前になるんだもんね、うん……十五年」俯くように前方に傾いたかと思うと、すぐに元の姿勢に戻るタツミ。「じゃあもう答え言っちゃおうか。言っちゃうか、言っちゃうね。はい、今回みんなに体験してもらう手触りは……『むかしスーパーによく置いてあった、ビニール袋を開けるときに指を湿らすためのスポンジみたいなやつ』です!」
 
          □
 
 正式名称は事務用海綿というらしい。
 事務用スポンジや、指ぬらしと呼ばれることもあるとか。あったとか。
「では、さっそくどうぞ!」
 言われたとたん、私の視界は暗転した。四角い残像の他には何も見えなくなる。また、完全な無音になったことで、さっきまではずっとBGMが流れていたのだと気づく。
 乾タツミが配信する触感ASMRコンテンツは、基本的には視覚を伴わない。聴覚も、ときどきガイド的な音声が流れる程度だ。没入感をさらに高めるため、私はコメントの表示をオフにした。HMDの外側もとっくに消灯済みだ。
 残像が消え、暗闇に目が慣れてきたころ。
 ふと、指先に何かが触れた。
 脱力しきった右手。その人差し指の腹に、ひやり、と湿った感触。自然と、残りの四本の指を折り曲げてしまう。一本だけ立った人差し指が、そっと沈み込む。
 かすかな抵抗。
 小さな穴の集まり。
 ひろがる冷たさの円。
 湿ったスポンジを触って、指先がぬれている――実際にはぬれていない。スポンジにも触れていない。冷たく感じたのは、ペルチェ素子による吸熱反応。水分を含んだスポンジのようなテクスチャは、指先の微細な振動による触感再現。押し返されたような感覚は、指や手首、肘などの関節部分の制御によるもの。グローブ内に仕込まれた各種装置によって、ただ何かに触れたという感覚だけではなく、温冷覚や圧覚、振動覚など、皮膚で感じるさまざまな感覚が再現されている。
 それらの感覚の統合によって、私は湿ったスポンジを触っていると感じる。
 指先がぬれていると感じる。
 そして思い出す。
 まだ小学校に上がる前、両親が共働きだった私は、よく祖母に連れられて近所のスーパーに行っていた。そのスーパーの袋詰め用の台にそれは置かれていた。そう、私は『むかしスーパーによく置いてあった、ビニール袋を開けるときに指を湿らすためのスポンジみたいなやつ』を知っている。触ったことがある。
 指が乾燥しているわけでもないのに、そもそも自分は袋詰めなんてしないのに、しきりにねだっては触らせてもらっていた。
 たぶん、祖母の真似をしたかったのだ。
「ビニール袋を開けます。親指と人差し指をこすりあわせてください」
 私はタツミの声に従う。
 本来、厚手のグローブによって遮られているはずの指と指が、ぎゅっと密着したかように錯覚する。人差し指の水分が親指にも行き渡ったかのように感じる。
 いや、薄皮一枚があいだに挟まった。
 二枚か。薄いビニールが二枚。
 つるつる滑るはずのビニールが、こすりあわせる指にくっついて剥がれていく。指紋の上の微量の水が生み出す、表面張力のなせるわざ。
 小学生高学年のころには、自分から袋詰めを手伝うようになった。理科の授業で習ったことを得意げに話す私に、祖母はうんうんと相槌を打つ。そんな些細な、けれども懐かしい記憶が、指先からよみがえる。
 そのとき目の前が明るくなり、白い立方体がふたたび現れた。
 触感ASMRが終わったのだ。
「……いかがでしたか? 久々の配信だったけど、ちょっとマニアックすぎたかな。いやあ、水みたいな形のないものの感触って、なかなか再現が難しいんだよねー。しっとりとした感じ、ぬれてる感、出てたかな? まあ新しいツールのおかげで素材自体はうまく撮れたと思うんだけど」
 コメント表示をオンにすると、触感のリアルさを褒める内容がぞろぞろと並んでいた。私と同じく懐かしさを感じた人もいたようだ。一方で、『よくわからなかった』というコメントもときおり見られた。おそらく十代以下の参加者だろう。ASMRのトリガーとなるコンテンツは、受け手の過去の記憶や経験に訴えかけることでASMRを生じさせており、それゆえに感じ方には個人差がある。そもそも受け手が実物の触感をよく知らないのなら、再現された触感にぴんと来ないのも無理もない話だ。洗い物でスポンジを使うこともあるだろうから、完全に未知の触り心地というわけでもないと思うけれど。
 今やどこのスーパーに行っても『ビニール袋を開けるときに指を湿らすためのスポンジみたいなやつ』は見当たらない。クイズのときにタツミが「もう十五年も前になるんだもんね」と言っていたが、そのころにみんな撤去されたのだ。スポンジではなくただの布巾が置いてあるスーパーもかつては存在したがそれもなくなった。たしか、感染拡大防止のためとかいう理由で。
 同じ年に祖母も他界した。入院中の面会も、火葬に立ち会うこともできなかった。
 
          □
 
「はい、今回みんなに体験してもらう手触りは、前回に引き続きちょっと懐かしいシリーズで……よくおっきい建物のトイレにあったよね、『ハンドドライヤー』です!」
 というわけで、乾タツミ復帰後二回目の触感ASMRコンテンツ配信だった。
 復帰以来、雑談配信やVRゲームの実況配信などは頻繁に行われていたが、前回の『ビニール袋を開けるときに指を湿らすためのスポンジみたいなやつ』から数えるとおよそ半月ぶりになる。センサの塊である録触機器で配信素材となる触感を収録してから、触覚デバイス向けに加工・調整して実際に配信するまでに、それほどの日数がかかったということなのだろう。
 ハンドドライヤー。
 エアータオルともいう、そのぬれた手を温風で乾かす装置について、私には特にこれといった思い出がない。それなりに懐かしくは感じるものの、湿ったスポンジがスーパーから消えたのと同時期にあちこちのトイレで稼働中止になって、それっきり、という印象しか持っていない。だから前回とは異なり、今回の触感ASMRコンテンツは私の心を強く刺激するものではなかった。
 それでもその触感の再現度には感心させられた。むしろ、たいして思い入れのない触感だったからこそ、その再現を下支えするハプティクス技術のすさまじさに目が向いたのかもしれない。
 まず、いきなり両手が水びたしになっていて、降ろした腕の先で五指から水滴がしたたり落ちる感覚が本物としか思えなかった。次にハンドドライヤーの再現。前回はタツミの指示にタイミングを合わせて指をこすり合わせる必要があったが、今回はグローブの動作認識との連携で、手を前に伸ばすと温風が吹き始めるという仕組みが完璧に再現されていたのだ。何度体験しても新鮮な驚きが味わえるので、ついつい手を前後に動かしてしまう。あまりに繰り返すものだから、うっかり現実世界のテーブルに手をぶつけてコップを倒しそうになってしまった。実際に水にぬれたらグローブが壊れてしまうところだった。
「『新しい録触機器って、水や風の表現に強いんですか?』。そうそうそうそう、それなんだよね!」
 触感ASMRのあとの雑談タイムでは私の質問が採用された。これがはじめてではないが、何回目でも嬉しいものだ。
「温感と振動で表現される風、それによって手のひらの上を流れる水滴の再現、どっちもすごかったでしょ? 前は固形物しかうまく撮れなかったけど、これからはもっといろいろできると思うよ。どこか遠くを旅して、そこにしかない手触りを再現するのとか面白そう。旅行とか何年ぶりだろう……。他にも、やりたいことはまだまだたくさんあるよ」
 そんなタツミの宣言に、『すげー』『楽しみ!』などとコメントが連なる。そのひとつひとつに頷くように全身を上下に振るタツミを見ていると、思わず口もとが緩んでしまう。
 タツミの素朴なアバターを初めて見たときには、いくらなんでも解像度が低すぎるだろうと思ったものだ。ローポリにもほどがある、と。レコメンド枠のサムネイルがたまたま目に留まって、暇だったから雑談配信に飛び込んでみて、それからなんとなく入り浸るようになって……、いつのまにか、このどでかい杏仁豆腐みたいなフォルムが愛らしくてたまらなくなっていた。
「水滴って言えばさー」ふと、タツミは話題を変える。「たしか、そういう拷問があったよね。拘束して動けなくした人のおでこに、ぽつ、ぽつ、ぽつ……って水をしたたらせつづけると、いつか発狂するってやつ。水責めって言うんだっけ? 似たようなので『ブアメードの血』ってのもあったよね?」
 このように、ときどきタツミは唐突に物騒なことを言い出して、そのたびにファン歴の短い参加者を困惑させた。私はもう慣れていたけれど。
 でも、私もファンになったばかりのころは、こういう危ない発言をたまに漏らすのが乾タツミの素の内面なのだろうか、それとも計算して作られたキャラとしての一面に過ぎないのだろうか、とよく思いをめぐらせたものだった。触感ASMRコンテンツという分野は、別に乾タツミの独擅場というわけではない。配信者は他にもたくさんいる。だから他と差別化するために、変わったアバターを纏ったり、ときおり奇抜な発言をしたりしているのではないか。そう邪推することもあった。
 いや、過去形じゃない。今でも割とそうだ。
 内面なんて、触れようとしないほうがいいし、触れられるものでもないけれど。
「ただの思いつきだけど、あれって触覚デバイスを通してでも同じことができるのかな? つまり、おでこにデバイスを装着して、水滴が肌に当たる感覚を休みなく与え続けたら、それでも人は発狂するのかな? いや僕はやらないけどね! おでこにつけるタイプのデバイスなんて持ってないし、あるかどうかも知らないし……」
 それに、僕には他にやりたいことがあるから。
 そう言って、タツミはこの日の配信を終了した。
 
          □
 
 それからも、おおむね半月に一度のペースで触感ASMRコンテンツは配信された。『ふたが開けっぱなしの液体のり』『陽があたって水面だけほのかに温かくなっている水辺』『タピオカ』などなど、さまざまな水気のある触感が再現される。そのどれもが本物そっくりで、配信を重ねるたびにますますクオリティは上がっていった。
 そして、復帰後十回目の触感ASMRコンテンツ配信。
「今日は、しめりのことについてお話ししたいです」
 その日の乾タツミはいつもと違って、だらけたところのない神妙な口調だった。立方体の動きも小さいというか、ぴたりと宙に静止した状態だ。人型のアバターだったら、直立不動といったところだろうか。
 しめり。
 それはタツミの飼っていた愛犬の名前だった。
「活動休止前から僕の配信に来てくれているみんなはすでに知っていると思うけど、最近来るようになった人もいるから、改めて話しておきたいなって思って。それに、今日みんなに体験してもらう手触りとも関係しているから……」
 コメントもいつもより少ない。多くの参加者は事情を知っていて、みんなタツミのことを見守っているからだ。
「えっと、しめりというのは、僕が飼っていた犬の名前です。シェルティです。僕が活動休止するすこし前に、老衰で亡くなりました。というか、しめりが死んじゃって、僕の元気がなくなっちゃったから活動休止していました」
 当時、SNSで告知が出たときには私もひどくショックを受けた。しめりのことは、よくタツミが話していたから。
「しめりはずいぶんと長生きしてくれました。十五年前、しめりをお迎えしたころは、人と会うのも難しい状況で、ずっと家にこもってばかりで。だからしめりの存在は、本当に心の支えだった。直接関係しているわけじゃないけど、もしもしめりがいなかったら、この配信も始めてなかったと思う。こんなチャレンジするような余裕なんてなかったんです」
 十五年前は、外出自粛要請がきっかけとなってか、一時的にペットブームが起きた。その一方で飼育放棄の問題も発生したそうだけど。タツミとしめりはずっと仲良しで、しめりの鼻息をバイノーラルマイクで録音して、これもASMRだって言って配信した回もあった。
「しめりは本当にかしこい子で、配信しているあいだはいつも大人しくしていたし、僕が落ち込んでいるときには近寄ってきて頭を撫でさせてくれたり、ぬれた鼻をぶつけてきて笑わせてくれたり……そう、だからしめりって名前なんだ。これって前にも言ったっけ?」
 明確に言及されたのはこのときが初めてだったけど、私はすでに知っていた。
 何度も何度も、タツミとしめりとの数々のエピソードを聞いていたから。
「それにしめりは、あの日、僕が起きてくるのを待っていてくれました。目の前で、息を引き取ってくれました……。でも、やっぱり別れたくない。どうかこれからも頭を撫でさせてほしい、ぬれた鼻をぶつけてきてほしい、そんな思いで僕は、買ったばかりの録触機器を使って、でも撮ったはいいけどうまく使いこなせなくて、どうしても元気が出なくて……。復帰してからここ数ヶ月、練習を重ねて、ようやく触り心地を調整するコツがつかめてきたんです」
 今回みんなに体験してもらう手触りは、僕の愛犬、しめりです。
 タツミの言葉とともに、両手にそれぞれ別の触感が現れた。
 右手には、手のひら全体に乾いた毛並みの触感。温かいふかふかの奥に、しっとりとした感覚が潜んでいる。
 左手には、手の甲を突くかのようなひやっとした触感。冷たい一点が、つんつんと悪戯っぽくつついてくる。
 どちらの手触りも、本物の犬のそれとしか思えなかった。
「そう、僕が一番やりたかったのはこれだったんです。こうすれば……、しめりの手触りを再現すれば、これからもずっとしめりに会える。『ビニール袋を開けるときに指を湿らすためのスポンジみたいなやつ』も、『ハンドドライヤー』も、他の再現コンテンツも、すべてはしめりの手触りを再現するための練習だったんです」
 右手にはしめりの頭。
 左手にはしめりの鼻。
 位置関係のつじつまが合わないけれど、きちんと整合性を確保して、ハンドドライヤーのときのようにこちらの動きに合わせるようにして、さらに映像や音声も合わせるようにしたら、ますます本物の犬らしく――本物のしめりらしくなっただろう。
 そして目の前の乾タツミは、それを実現させるための技術をすでに持っていた。
「これまで長々とつき合わせちゃってすみません。でも、みんなが毎回コメントしてくれたのが励みになって、どんどん上達して、あとちょっとでしめりにもう一度会うことができそうです。だからこれはおすそ分けです。触り心地の、おすそ分け」
 そのとき。
 静まり返っていた視界の左側に、一件のコメントが湧き上がった。
『これって犬の死体を触らせてるってこと? 気持ち悪いんだけど』
 
          □
 
 それは、乾タツミの初めての炎上だった。
 たったひとつの拒否反応をきっかけにコメント欄は荒れに荒れ、配信はすぐに中止となった。参加者の中にはタツミのやったことを支持する者も少なからずいたが、賛成派、反対派どちらの立場も人によって主義主張が微妙に異なり、意見交換をしても論点は次第にずれ、揚げ足取りが加熱し、配信に参加していなかった者が混ぜっかえすようになって、不毛な言い争いがネット上で繰り広げられた。私もつまらない言い争いに加わってしまい、下手にヒートアップしてしまったせいで非公開のSNSアカウントに引きこもる結果に終わった。乾タツミのSNSアカウントにも批判が殺到し、なかには汚物や刺激物の触感データをタツミに送りつける者まで現れたが、そういったアカウントはすぐに凍結された。
 配信から二日後、乾タツミの謝罪メッセージが公開された。しかし「触感データはまだ犬が生きているうちに録触したものであり、その録触素材を加工して、まだ元気だったころの触感を再現して配信していたので、犬の死体の触感を配信したというのは誤りである」という弁明がさらに火に油を注ぐ結果となり、やがて乾タツミのSNSアカウントは削除された。バーチャル空間配信サービスのアカウントも非公開になり、これをもって乾タツミはふたたびの活動休止となった。
 一週間後、あるタレントがバラエティ番組のコーナーで描いたイラストがまるで悪夢のようだとSNSでトレンドになり、そのイラストを全面にあしらったバーチャル空間が流行した。その翌日にはまた別のニュースが話題になっていた。
 
          □
 
「――はいっ。えっと、みなさん、だいたい二ヶ月ぶりです。
 乾タツミ、恥ずかしながら戻ってまいりました。
 いつのまにかアカウントが復活していて、配信予告の通知が届いて、みんなびっくりしたよね。しかも配信枠が八時間。こんな長時間の配信、今まで一度もやったことないんじゃないかな。
 ……ごめんね、今回はコメント欄閉じてるんだ。
 映像も切ってます。真っ暗だけど許してね。
 あ、言っておくけど謝罪配信じゃないよ。これはいつもの、触感ASMRコンテンツ。みんな、手袋の用意忘れずにね。
 ちゃんと手袋した?
 じゃあ、はじめるね。
 さっそくだけど、みんなは『ブアメードの血』って知っているかな? 前に一度、ハンドドライヤーの配信したときにちょこっと話したような覚えもあるけれど……。
 クイズ形式にしても誰も答えられないから、ざっと説明しちゃおう。
 ヨーロッパのとある国で、ブアメードという名前の死刑囚を使って、医師たちがある実験を行いました。医師たちは、ブアメードをベッドに拘束し、目隠しを巻いて何も見えないようにします。そしてこう言いました。『ブアメード、今からお前の足の指を傷つけ、血を抜いていく。全身の三分の一の血液が失われたころ、お前は死ぬだろう』と。
 しかしそれは嘘でした。実際のところ医師たちは、ブアメードの足にちょっとした痛みを与えただけで切り傷ひとつつけませんでした。その代わりに、足の指の一点に水滴を垂らし続けました。まるで足の指からゆっくりと血が流れているかのように、偽の触感をつくったのです。
 また、ベッドの下には水滴を受ける容器を用意しました。ぽた、ぽた、と一定の間隔で水滴がしたたり落ちる音が辺りに響きます。
 もちろんブアメードの耳にもその音は届きました。
 ぽた、ぽた、ぽた、ぽた、と。
 しばらく時間が経って、ついに全身の三分の一の血液が抜かれたと医師の一人が宣言しました。それを聞いたブアメードは……、なんと、そのまま静かに息を引き取りました。
 一滴も血を流していないのにもかかわらず。
 自分が大量出血していると思い込んだせいで、本当に死んでしまったのです。
 ……そう。
 今回みんなに体験してもらう手触りは、これです。
 みんなの場合は、足首じゃなくて手首。かつてブアメードがその身に受けたという、自分の血がしたたり落ちる感覚を味わってもらいます。
 あ、待って! 逃げないで!
 大丈夫だって、危なくないよ!
 ちゃんと僕の話聞いてた? ブアメードは、自分が大量出血していると勘違いしたせいで死んじゃったんだよ。
 みんなはもうこの話を知っているんだから、いくら血のしたたる触感を再現したところで、自分が大量出血しているだなんて思い込むわけないじゃん。勘違いする余地がない。まあ、そもそもこの話、都市伝説というか、信憑性はけっこう低いんだけどね……。
 それに、僕はみんなをベッドに縛り付けてもいないし、目隠しじゃなくてヘッドマウントディスプレイだから、いつでも離脱できるしね。
 そうでしょ?
 それじゃあ、さっそくどうぞ!
 ………………。
 ……チクっとしたね。
 血が垂れている、かのように感じるのが分かるかな?
 ぽた、ぽた、ぽた、ぽた。
 これってけっこうリラックス効果があると思うんだよね。
 なんか瞑想できそうな気もする。
 僕はしばらく黙ってるから、みんなも瞑想してみてね。
 ………………。
 ………………。
 ………………。
 
          □
  
 ………………。
 ………………。
 ………………。
 
          □
  
 ………………。
 ………………。
 ………………。
 
          □
  
 ………………。
 ………………。
 ………………。
 
          □
  
 ………………。
 ………………。
 ………………。
 
          □
  
 ………………。
 ………………。
 ………………。
 
          □
  
 ………………。
 ………………。
 ………………しめり。
 
          □
 
 もっともっと、たくさんとっておきたかったよ。
 あなたのぬくもりや、ざらっとした肉球。
 舌が掬いとるその水面のかたちまで。
 
          □
  
 ねえ、しめり……。
 ………………。
 ………………。
 
          □
  
 ………………。
 ………………。
 ………………。
 
          □
 
 ………………。
 ………………。
 ………………。
 
          □
 

 私はヘッドマウントディスプレイを取り外し、グローブも脱ぎ捨てた。
 これ以上、乾タツミの自殺配信を視聴しつづけることはできなかった。当初ほどの勢いのなくなった血のしたたりを感じつづけることもできなかった。もう限界だった。
 そう、自殺配信。
 タツミが配信した触感ASMRコンテンツは、ブアメードの血なんて胡散臭い実験の再現ではなく、自らの死の触感を録触機器で収録したものだった。
 正確には、本当に自殺だったかは分からない。参加者に嫌がらせするためにつくられた、偽の触感かもしれない。本気で自殺するつもりだったが、未遂に終わったという可能性もある。中の人は、という意味だけど。
 いずれにせよ配信サービスの運営会社や警察に通報すべき事態だったが、私には何もできなかった。
 なぜなら、私がついさっきまで見聞きし、触れていたのは、ただのアーカイブだからだ。
 配信されたのは一年前のことだ。
 かつてリアルタイムで参加し、コメント投稿までした配信のアーカイブを、私は手元にすべて保存していた。暇さえあれば、それらを頭から順番に再生した。はじめましての自己紹介も、初の触感ASMRコンテンツも、しめりの鼻息配信も、悲痛な声での活動休止のお知らせも、そして復帰後の一連の配信も。
 何度も、何度も繰り返した。
 そこにしか乾タツミはいないから。
 あるいは、そこにしか乾しめりはいないから。
 あの日、リアルタイムで血のしたたりを感じていたとき、どうして自殺配信だと思い至らなかったんだろう。そんな悔いとともに再生する日もある。どうして乾タツミは、自分の手首に血が流れる感覚を最後に共有しようと思ったのだろう。そんな疑問とともに再生する日もある。何も考えず、手触りを実感するためだけに再生する日もある。
 分かっている。私は執着している。
 距離も、時間も、生死の境さえも隔たった先の触感に。
 口の中がひどく乾燥していた。最後の配信を再生したあとはいつもこうだ。机上のコップをつかんで水を一口含み、唇を湿らせた。






参考

  • テクタイル 仲谷正史・筧康明・三原聡一郎・南澤孝太. 2016.『触楽入門 はじめて世界に触れるときのように』朝日出版社.
  • ASMR University. “Origin Theory of ASMR”. https://asmruniversity.com/origin-theory-of-asmr/

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稲田一声

稲田一声(いなだ・ひとこえ)。SF創作講座第4期受講生、第5~6期聴講生。「おねえちゃんのハンマースペース」で第4回ゲンロンSF新人賞東浩紀賞を受賞。(Sci-Fire元メンバー)

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