第77回ワールドコン・ジェンダー

ワールドコンについては沢山の記憶がありました。ここではその一部について記します。

1. セッション

 ワールドコン(Worldcon)、という呼び名がある。The World Science Fiction Conventionという、1939年に始まったイベントの通称である。世界SF大会とも呼ばれる。
 1942年から1945年までの非開催期間を除き、基本的には年に一度開催され、今年で第77回となる。
 今年のワールドコンは、アイルランド共和国の首都にしてアイルランド島の東部に位置する都市、ダブリンで開催された。私たちはそこへ行った。
 ダブリンは海の近くで、市の中を西から東へゆるく流れるリフィー川は、幾分工業的な港を抜けるとすぐ海に合流する。街の印象は石と水。歩道は硬く足に響いたが、涼しい気候と長い昼、落ち着きある街並みのおかげで、あと丸一ヶ月くらい滞在したい街だった。そして鳥。空には鳥が飛ぶのが時々みえて、川に交わる運河には白鳥めいた鳥もいた。明るさの目立つ夕方、食べ物の買い出しの前後に、水辺の広場から鳥の動きを眺めるのを繰り返したような気がする。
 さて、ワールドコンの話だった。

 今回のレポートは、ワールドコンの体験を、ジェンダーの点でどうかしてみようというものである。どうかってどう? とりあえず、はじめにセッションの話をしよう。
 初参加のこのワールドコン、聴きたかった多くのセッションをミスしてしまったのだが、ジェンダー&セクシュアリティに関して催された複数のものの中で、一つ聴いたパネルセッションがある。
 タイトルは”Fandom and the LGBTQI+ community”。
 紹介文はこちら。

There’s overlap between the LGBTQI+ community and fandom, and fandom spaces have been touted as a place for those who felt rejected from ‘normal’ society to come and get their weird on. But is that always the case? Our panel of queer fans will discuss their relationship to fandom, how it’s sometimes let them be more themselves than they can in other places… and sometimes not.

https://eu.grenadine.co/sites/dublin2019programme/en/dublin-2019/schedule/7041/Fandom%20and%20the%20LGBTQI+%20community

 紹介文から解釈した意味は(きっちりした訳ではない)「LGBTQI+コミュニティとファンダムには重なる部分がある。ファンダムの空間というのは、『ふつう』の社会から拒まれたと感じる人たちが来て、ヘンでいられる場所だといわれている。でもいつでもそうだろうか? クィアなファンがやるこのパネルでは、ファンダムとの関係について話そう。他の場所にいるときよりも、どんなふうに、時には自分たちらしくいられるのか。そして時には違うのか」。
 一応用語の話をすると、「ファンダム」というのはファンでなるコミュニティのこと。この場合は、SFが好きな人たち、SF関係の作品の愛好者たち、だろうか。「LGBTQI+」というのは、頭文字の列と「+」だ。レズビアンのL・ゲイのG・バイセクシャルのB・トランスジェンダーのT・{クエスチョニング・クィア}の意味を持つQ・インターセックスのI……、と並べていっても含まれないものだってあるから「+」……というのが乱暴な説明。ここでは「セクシュアルマイノリティ(性的少数派)」と近いものを指すのろうだけれど、具体的に提示するという効果を持つともいえるかもしれない。三つ目に「クィア」。この語は「風変わりな」「奇妙な」という意味を元々持つらしく、かつてゲイ・トランスジェンダーを侮蔑する呼び方として使われたが、後には呼ばれた方たちが逆に自己肯定的に使うようになった。既存の規範に問題提起をする、といった意味合いなどを含んで。
 ……と用語について述べてみたが、多面的で、難しい。全容を言い切った説明だとは思わないでほしい。

コンベンションセンター

 セッションの場所は、ワールドコンで使うイベント施設その一たる、川沿いのコンベンションセンター。そこに幾つかある、何々ホールと名付けられた、広めの会場の一つだった。ホール開催セッションの常として、開始前には室外に列ができている。並んで入ると、パネリスト数人が前にいる。そしてセッションが始まってすぐ、参加者の声(Voice)を聞きたいと語られた。
 とはいえ進行の主線として、まずパネリストたちが自己紹介していった。……バイセクシャル、インターセックス……とジェンダーやセクシュアリティに関して話し、ファンダムとの関係や作品についてのことも話した。日常的で砕けた口調もあってか、英語を聞き取るのが難しかったが、一人が、「ファンダムが相談相手であった」というようなことを話していた気がするのが印象に残った(聞き間違いかも)。
 覚えているのは、声聞きたい希望に応えてあげないとな、誰がやる? なんて応対以上の早さ強さで、次々と声が上がったことだ。次第にリレーされるようになる声に熱を聞き、小さく穏やかな興奮の感覚をおぼえていくと、時間が終わりになり、外に出る。
 ただ周りを見て、アジア系っぽいみかけの人は少ないな、というようなことも考えた。実際に、政治的、文化的な状況によるものがあってそうなのか、コミュニティ的な空気の断層を私が予想してしまったためなのか。

2. 理念

 ワールドコンの四日目には賞の発表があった。
 そこで登壇している人々には、胸部が腹部より大きい感じの装いの人々――かれらが自らの装いを肯定しているという前提でこう書く――が多かった。
 かれらの数人は「My Wife」に感謝を言い、数人は「My Husband」に感謝を言った。
 パートナー持ちが多いな、というのはさておき、その言葉はどちらの場合もなめらかに進んだ。場内は、どちらか一方にざわめくのでも、歓声を上げるのでもない。どちらに対しても同じような空気を観客は向け、どちらを出すときも同じような口調で話し手は言う。
 羨ましかった。だが、そのような状況となるまでにどれだけの実践が経られたのだろうか?
 参加者の居住地の多くで当然行われていることなのだろうか? いや、そうでないなら、人が成り立たせているのか? 理念を実現するという合意の上で、この場を? 気にくおうがくわなかろうが理性と自己制御によって一つの場を設立する、実際に成立させる、そのような営みなのだろうか? 理念の楽園のような。
 ワールドコンのここで発表されていくヒューゴー賞が組織投票運動で揺らいだ2015年のパピーゲート事件も遠くない。参加する人たちも必ずしも一枚岩ではないだろう。
 それでもこの場がもし一個の園に似ているなら、造園の原理は生活指導と呼ばれるものであるよりは願いに近いような気がする。活動性をもった願い。それを実践するのはワールドビルディングと共通するだろうか。

モハーの断崖

3. 人称代名詞と四種のシール

 文字を印刷された丸いシールのシートが一色ずつ三種類と、文字のない黄色いシール・シートが一種類、テーブルの上にのっていた。ワールドコン、開始一日目の会場だった。受付を済ませて、ネームプレートを持ったAは、「They」と書かれた紫のシールを剥がして、ネームプレートに印刷されている丸い囲みの上に貼った。記憶は少し曖昧になる。その後でAは「He」「She」のシールをとって、「They」の下に並べて貼った。二つ目の貼付行為の前には、恐れと戸惑いがあった。そして、言うことを言語化して話せるようになるまでの時間があった。その何日か後、Aは四枚目の文字のないシールもとって、「何でもOK」といった意図の言葉を書き、ネームプレートに貼りつけた。

 それが、ワールドコンの会場で私のしたことだった。
 ここからこのパートにおいて記していくことが疑問を呼ぶのなら、それが、近い未来、どうしてTheyを取ったかではなく、どうして回りくどい行いをするかへの疑問となっていることを思う(と回りくどく書いたが、疑問の選択肢が二つって少ないな)。
 They。それは、英語では代名詞(Pronoun)としての位置づけがある言葉だ。 複数いる人間を表す三人称の代名詞としてのみではなく、性別不定の人間を表す代名詞(論議を呼ぶ「Generic He」や、「He/She」という言い方に対応するような)としても用いられる。近年ではさらに、特定の人間を指す場合にも使われるようになっているという。

【引用】
— LEXICO (powered by Oxford)
They
(中略)
2 [third person plural and singular] Used to refer to a person of unspecified gender.
‘ask a friend if they could help’
(中略)
Usage
(中略)
In a more recent development, they is now being used to refer to specific individuals (as in Alex is bringing their laptop). Like the gender-neutral honorific
Mx
, the singular they is preferred by some individuals who identify as neither male nor female.

https://www.lexico.com/en/definition/they

 さて、先日の状況を解釈すると、ワールドコンのテーブルには、呼んでほしい人称代名詞を提示できるシールが置いてあった。それは選択肢だった。
 選択肢が明示されてあることを残酷だと思ったのは、そのひと月かふた月か前のことだったろうか。
 私はプロフィールの英文ドラフトを前に迷っていた。

 ワールドコン、というイベントがある。ザワールドサイエンスフィクションコンベンション。SFやファンタジーのイベントで、多くのプログラムは英語で進行するようだ。これに参加できることになって、自分のプロフィールを客観視点ででっちあげることとなった。英語である。そいつはやばいが、困ったのは、文中に――一節あたり高々一つくらい出てくる名詞のことだった。
 三人称単数代名詞。
 こいつのおかげで私は十代のころ、英語を第一言語として使わなくていいことに感謝した。
 私の知っていた英語では――英語を習った時代の英語では――書き言葉において、あまり固有名詞を連発しないという。その代わりに使うのが、He、とかShe、とかいうあいつ。Itは人間的でないとかで、人類を登場二番目以降She/Heにしていくのだった。当時インターネットで他の三人称単数代名詞がないか調べたところ、Xeなど発案されてはいるが、あまり広まっていないようだった。
 クソ! だ。会った人間を女か男かに区分するのか、そうしないと成り立たない言語的世界観なんてクソ――と思っていた。そうしなくても成立する日本語をありがたいと思った。日本語では一人称の話もあるが、一人称や三人称をぼやかしたり省いたりでやっていける場面も多い。私は会った人をShe/Heに区分するのが苦手だったし、そもそもその文化に馴染めなかった。

 自分にとって自然な方向と、多数とされる方向、多数さからデフォルトに化している方向とが食い違っていることに気づくのは、よくある話だ。そのうちの一つが、もっと人や自分の気にしないような事柄だったら、その関係の悩みにあげる時間はもっと少なかっただろう。
 私は途方に暮れていた。生き残りたかった。私は人の規範を仕入れ、シミュレーションを繰り返した。望むことをもししたらどうなる? 発生する問題の予想。自分がどのようであったらと考えた。そうなるには何の技術が必要かと考えた。こうでない社会を考えた。医療のごく一部や生物学のごく一部に少し詳しくなった。
 十幾つから二十幾つにかけて、それの対象が、誰かに女と区分される者であろうと、男と区分される者であろうと、私の内面化した規範は、その慕情を押しとどめた。
 やがて戦略をみつけた。暮らしのうちで、考えられる時間をどう配分するか、のことだった。考えたいことはたくさんある。ジェンダーやセクシュアリティについて考えることを少なく――その関係の悩みがない人が時間を配分する仕方を考えよ――消さずとも小さな一部にしてしまう、それこそ勝利ではないか? 私たちは一つの特徴においてのみ生きるわけではないのだ。やりたいことのために非集中する。
 私は、軽く、性別の事柄から遊離して生きるようにしたくなった。
 例えば書面での項目選択は、その値が使われる場面を考えて回答する。人に対するとき、何かなければ、自分からは特に何も言わない。他人が自分について語るのはそのままにする。そんな方針をとったおかげで、そうでない場合に生じて時間を熱しただろう様々な葛藤を軽く乾いたものに留めることができた。
 だというのに。
 クソ三人称。
 どうしてここに来やがった。
 一旦、固有名詞を連呼するドラフトをつくった。書いた話の紹介文とまとめて、友人に添削を依頼した。日本語英語その他を使い、読み物や何やの話をする、中学以来の友人だ。マクドナルドでRPGの協力プレイをしたことも多い。
 英語圏のオンラインコミュニティでも活動している友人はゲキヤバ英語を添削してくれ、その中で、固有名詞だらけの部分について触れ、pronoun使いたくないの、と尋ねてきた。イエス。それで回避策を尋ねれば、一つ目にあらわれたのがSingular Theyのことだった。Gender neutralなものとしては一番無難、というサジェスト。二つ目として、カンマでセンテンスをつなぐ書き方(ただし非文法的)の存在も知った。
 Singular They。単数のThey。ウェブニュースに載っていたような覚えがあったが、SFで目にする他の三人称代名詞(存在に感謝している)と、人々にとっての定着度合いがどう違うか、それまでおぼつかなかった。今ポピュラーなのかを友人に尋ねると、辞書に載るんじゃないかなってレベルだったはず、とか。そしてOxford Online Dictionary(現LEXICO)のリンクが来た。
 Theyか、やってみることにした。少なくとも偽るよりよい。そして単に回避のために雰囲気の違う言い方を使うよりも今はこうしたい。
 英語で目の敵にしていた三人称の様相は変わったのだろうか。変化は、どれかの名詞を選ばざるを得ない、すなわち選択によってなにがしかを主張せざるを得ない状況の生む、残酷な輝かしさなのだろうか。

 ワールドコンの参加フォームでも、呼ばれたい三人称を問われ、Theyを入れた。登録後に来たメールの署名の下に、My Pronouns: They/Them/Theirsとあった。そんなふうに使うのか、と思っただろうか。
 オンライン手続きはこれで済んだ。が、対面の状況があった。

 人称代名詞のシールが用意されている。
 私はその状況に、喉から手が出る――その形容の感覚を持った。
 しかし。身につけなければ楽ではないか? と思った。普段と同じように。会場にはシールをつけていない人も多いようだ。つけなかったら、出くわす相手は、相手にとって都合のいいように解釈してくれるだろう。つけたら、ただでさえアウェイなのに面倒くさがられるのではないか? これはウェブに置いたプロフィールと違って、名前も知らぬ誰かを見た際に視認されるものだ。挨拶よりも先に。
 選べるのは残酷だ、とも思った。選択肢が用意されていようと、コミュニティへの信頼か、リスクをとる勇気か、それなしで選択ができるだろうか。選ばないという選択は、一歩進めることに加わらないことのようで、恥ずかしくさせ、惨めな気にさせて、選ぶという選択は、その先のあらゆるリスクを引き受けるということを意味するようであった。
 だがどうであれ、あるのにとらないことはできなかった。
 その瞬間は、問われたときに内状を即答できる状況ではなかった。
 踏み絵、という言葉が頭に浮かんだ。
 言葉のともなうイメージは、今考えてみると、通常の「踏み絵」とは逆だった。踏むなと言われているのに、足を出している人が踏む。損得ではおかしなはずなのに、引き寄せられて喜んで踏んでいた、踏まざるを得なかったのかもしれない――と何か理解できるような気がした。そう、考えてみると、通常の「踏み絵」と逆なのだが、私は何を理解したのだろう。
 むろん、自分が単に取ることをできたのは、第一に生命の危険がないとか、そういう判断をしていたためだろう。これは信頼の一種であり、私は臆病だ。こんなレポートだって、死なないと思ったから書いている。革命で死ぬのは難しい。
 私はシールをつけた。それから何か問われて、「せっかくなので」と言ったろうか。よく覚えていない。その後で目線も恐くなり「He」と「She」をつけた。何でもよい、と主張する意味だ、と答える準備を頭でして。
 頭でだけ準備していたという点で落ち着かなかったけれど時々落ち着かないと思いつつ大体は他のことを考えていた時期の後、本当に、何でもよいと書いた黄色のシールをつけた。茶化すに似た陽性の主張をできることが、気を楽にした。そこからは日常だった。もう私は防護の殻を持っていた。


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