オブジェクト指向VTuber論を開始する

バーチャルYoutuber(VTuber)について語りたい。オブジェクト指向存在論のことばをつかって。
 そう考えてからもう数ヶ月。
 そろそろ手をつけないと。

 なかなか手をつけられなかった理由は明白で。手に余るから。
 5,000人超えるVTuberぜんぶ追っかけるなんて不可能だし。しかもオブジェクト指向存在論絡めて語るって。素人のぼくにはあきらかに荷が重い。
 でも。やらないと。思いついてしまったから。
 言葉遊びとおなじ。「思いついてしまった」ただその一事は。難易度とか自分の力量みたいな事情をかるく蹴散らして「とにかく表に出せ」と迫る。抵抗は無駄。
 どれだけ無謀で無茶で無能でも。書くしかない。

OOOをVTuberで

VTuberについては「さいきんなんかよく見るな」ってひとも多いと思う。ドハマリしてるひともいるかもしれない。
 VTuber――バーチャルYouTuberとはその名のとおりバーチャルなYouTuber。キズナアイを筆頭に。CGやイラストのすがたでYouTube――に限らずさまざまなサービス上で――動画配信とか生放送を行う。
 じゃ。オブジェクト指向存在論(Object-Oriented Ontology(以降OOO))はどうか。こっちはもうちょいくわしく説明しないと。ってことで。以降――VTuberにおける例を交えながら――OOOについて説明してみる。※1
 それおまえにできんの? って疑問は至極当然で。ぼくは専門家でもなんでもない。ただの素人。 『四方対象: オブジェクト指向存在論入門』 など。OOOの提唱者グレアム・ハーマンの本も和訳されてほかにも和訳された論文が雑誌『現代思想』やネットで読める以上。それでもあえてこうして文を書く/読むなら。ハーマンの本では叶えられないことを叶えないと――というと大事みたいだけど――本論の目的はたとえば以下のもの。

  • VTuberしってるひとにOOOに興味もってもらう
  • OOOしってるひとにVTuberに興味もってもらう
  • どっちもしらないひとに両方に興味もってもらう
  • VTuberを説明する道具立てとしてOOOがすぐれてることをあきらかにする
  • OOOをとおしてVTuberの「魅惑」の構造をあきらかにする
  • VTuberがOOOのモデルの「上演」であることを示す

 本論で避けなければならないこと。①VTuberがただの客寄せパンダになること。②OOOがVtuberを権威づけるためのただの護符になること。
 ①はあたらしくて流行ってるものならVTuberでなくてもよくなるし。②は権威があるならOOOでなくてもよくなる。そうじゃなく。VTuber×OOOという組み合わせならではのものを見つけないと。
 壁は高い。でもやってみよ。

4点のオブジェクト

OOOはその名のとおり存在をあつかう存在論で。また同時代的な潮流である思弁的実在論のひとつとみられることもあるとおり。実在論でもある。じゃ。どういう実在論か。
 OOOではあらゆるものが対象だと考える。対象はobjectを訳したもの。「オブジェクト指向存在論」のオブジェクトもこの「対象」のこと。そしてひとつの対象を4つの極で考える。感覚的性質。感覚的対象。実在的性質。実在的対象。対象はこの4つの極に分極し。構成される。順に追ってこう。


 感覚的性質は比較的つかみやすい。感覚のなかにあらわれる性質。たとえば目のまえにりんごがある。りんごは「赤い」って性質をぼくの感覚のなかでもつ。ほかにも「黄色い」点々や筋をもつかもしれないし。へたは「茶色い」。たべると「甘酸っぱい」。
 VTuberでいえばキズナアイは「ピンクの」「ハート型の」カチューシャをしてるし。ミライアカリの瞳は「碧い」。シロは「イルカみたいに」わらう。そういう感覚的な性質が。ある。ってことはまぁもちろん。受け入れられる。
 つぎに感覚的対象。すでに言ったとおりハーマンはあらゆるものが対象――オブジェクトだと主張する。車も。にんじんも。いぬも。それから電子も。軍隊も。国も。さらに四角い円も。ドラゴンも。ユニコーンも。ぜんぶ対象。
 ここでVTuberを交えて説明する意味の一端が見えると思う。ドラゴンとかユニコーンみたいな想像上のいきものも対象ってことは当然二次元のキャラクターも対象ってことになる。VTuberももちろん対象。とくに感覚的対象という場合には「ぼくたちが捉えてるかぎりでの」対象と考えるのがいいと思う。 ぼくたちが捉えてるかぎりでのぽんぽこやピーナッツくん。ぼくたちがしらない彼ら彼女らの側面はそこにふくまれない。でもともかく対象ではある。
 ただしハーマンは「それらがすべて実在する」って言いたいわけじゃない。実在的なものも非実在的なものもどれも対象ではある。ってこと。
 ん? それって「対象」って言葉でいったいなにを言いあらわしたいわけ? って思うかもしれない。たしかに謎。そこを理解するためにそもそもそういう表現をしたくなった原因――そこで想定されてる論敵のこと考えてみる。

解体と埋却

「二次元なんてただの絵じゃん」「三次元こそたんぱく質の塊だろ」って論争ももうあまり見なくなった気がするけどそういう対象を部品や素材のあつまりに還元する還元主義的なものの見方こそが「対象」という言葉遣いでハーマンが批判したい論敵。
 人間はたんぱく質で。たんぱく質は分子化合物で。分子は原子でできてて。原子は陽子や中性子や電子。クォーク。超ひも。……そうやって物を解体してくと。人間なんて素粒子があつまっただけの表層的なグループにすぎなくて。クオークや超ひものほうが本質的な単位って感じがする。
 そういう見方 ――ハーマンは「解体」と呼ぶ―― に対する批判の論証の過程はたとえば『四方対象』に記されてるけどここでは述べない。とにかく重要なのはハーマンはそんなふうに考えるかわりにたとえば人間を「統一的対象」として見てるってこと。
 ここではVTuberよりも単純な二次元のキャラクターを例に出したほうがいいかも。絵として描かれたキャラクターは白や肌色やピンクといった絵の具のたんなる集合ではない。それらを統一した対象としてたとえばぼくらはそれをルイズと呼んだりミクと呼んだりする。それらは単なる絵の具の集合に還元されない。それを超えるなにかをもってる。※2
 
 感覚的性質と感覚的対象。2つが分けられてることにも注目したい。ここで想定されてるのがもうひとつの論敵。りんごはたんなる原子のあつまりと言うかわりに性質のあつまり。って言うひともいる。あるいは「りんご」が実在するんじゃなくてりんごがほかのものたちと結ぶ「関係」があるだけだ。とか。そういう経験論や関係主義のように対象を性質や影響や関係の束に還元してしまう考え方をハーマンは「埋却」とよぶ。
 そういう埋却に反対して。ハーマンは感覚的性質と感覚的対象を分ける。つまり感覚的対象は感覚的性質の束以上のものだ。っていいたいわけだ。

 じゃ。感覚的性質と感覚的対象のあいだにはどんな関係があるのか。
 たとえば輝夜月の動画を見るとき。ぼくたちはつねに同じ性質に接してるわけじゃない。まばたきしてるあいだ色鮮やかな瞳は一時的に見えなくなるし。髪の房はゆれる。表情は笑顔になったり怒ったり。手をあげれば脇が見える。ひとつのおなじ感覚的対象でもあらわれる感覚的性質は時間とともにうつりかわる。そこでハーマンは感覚的性質と感覚的対象のあいだの緊張関係を「時間」とよぶ。
 たとえば樋口楓の衣装がかわってもぼくたちは「あれ? でろーんどこ? どこや?」って見失ったりしない。衣装がかわって感覚的性質が変化しても同じ対象なんだとわかる。それがつまり対象がたんなる性質の束とは言えないってこと。示してる。(2次元の画像がたんなるピクセルの集まりでしかないなら。たとえば「ハルヒ」と名付けられた画像から1ピクセルでも異なるものはまったく別のものとして考えないといけないはず)

月ノ美兎とはなんなのか

感覚的性質は時間とともに変化する。見えなくなったりあらわれたり。かわったり。でもそれを消せばあるものがあるものでなくなってしまうような――たとえば樋口楓が樋口楓でなくなってしまうような――「本質的な」性質もあるはず。そういう性質をハーマンは実在的性質とよぶ。
 重要なのはぼくたちは実在的性質を見ることはできない――アクセスできない――ってこと。なにが本質でなにが非本質なのか。なにを外せばそれはそれでなくなってしまうのか。ぼくたちは見ることはできない。でもそれがあることは知ってる。
 感覚的性質は変化する。変化を意図的におこせば操作になり。感覚的性質を操作してけばあるものがあるものでなくなってしまう瞬間に出会って。実在的性質を発見できるはず。そういう操作を形相的変更とよぶ。ここでVTuberにおける感覚的性質の稀有な操作の例に言及しておきたい。
 月ノ美兎はヨーロッパ企画のムービーゲームをプレイする配信「月ノ美兎の個性派ゲームフェス実況(1)」(※3)のなかでゲームをクリアするために配信に使用しているノートパソコンにマウスを接続した。ただしその代償として配信者の表情や動きを認識してLive2Dモデルをうごかすアプリを動作させてるiPhoneをパソコンから外さないといけなくなり。画面上の月ノ美兎の図像が消てしまう。そして「キャラ捨ててクソゲーとったぞこいつ」という視聴者のコメントに対して「これがバーチャルYouTuberなんだよなぁ……」という名言をのこした。
 月ノ美兎はその二次元の身体をまるごと消しても月ノ美兎である。そしてそのことは「これがバーチャルYouTuberなんだよなぁ……」というVTuberの本質を示さんとするかのような言葉とともに提示された。もちろんそんなつもりはなかったろうけど。それはたしかにVTuberの本質を垣間見せた形相的変更だった。
 どこからどこまでが月ノ美兎なのか。なにが月ノ美兎を月ノ美兎たらしめるのか。つまり月ノ美兎の実在的性質はなんなのか――すくなくともそれは二次元の身体ではなかった――ひとまず説明にもどるけど。このすぐれた実験についてはあとでまた考えることになる。

退隠する実在とVTuber

さいごに実在的対象。実在的対象も実在的性質とおなじでアクセスできない。とハーマンは言う。
 たとえば目のまえにあるりんごをみてる。でもそれは「りんごそのもの」をみてるわけじゃない。物理的にはりんごが反射した可視光をみてるのだし。「見る」というプロセス自体なんらかの変換でもある。ぼくたちがみてる「りんご」の像はぼくたちが受けとめられる形に変換された「ぼくたちに捉えられる限りでの」りんごでしかない。つまり感覚的対象。ぼくたちは感覚的対象を見ることはできるけど実在的対象を見ることはできない。でもたしかにそこにある。実在してる。
 実在的対象は見えない。聞こえない。味わえない。つねに隠れてる。そのことをハーマンは「実在的対象は退隠してる」という。
 さあ。なんでVTuberとOOOを関連づけて語りたいか。わかると思う。こっからがいちばんおいしいとこのひとつ。VTuberの構造はOOOの提示する四方対象のモデルに似すぎてる。
 月ノ美兎の配信動画や生放送を見るとき。ぼくたちは月ノ美兎を「見てる」。でもぼくたちは同時に月ノ美兎を「見てない」ことも了解してる。アニメのキャラクターであれば「中の人」とよばれるような――VTuberにおいては「魂」とよばれることもある――次元の。現実に存在する身体をもつ「配信者」をぼくたちはみることはできない。
 つまりVTuberにおけるキャラクターの図像は感覚的対象で。感覚的対象は見える。でも配信者は実在的対象に相当して。実在的対象は見えない。※4
 OOOの特色のひとつとして感覚的対象と実在的対象をわけたことがあげられると思う。なら。まさしく感覚的対象――図像――と実在的対象――配信者――の分離を隠しながらもそのことにより強く意識させるVTuberのありかたはOOOのモデルと呼応してる。ってことになる。

相関主義にはおかんむり

比較的あたらしい哲学上の潮流とみなされる思弁的実在論は――その主要なメンバーのひとりとされるハーマンも含めて――それぞれ異なる考えをもちながらも共通の仮想敵をもってる。
 カンタン・メイヤスーが「相関主義」とよぶその論敵の主張はおおざっぱに言えば「ぼくたちはぼくたちの思考が関わるかぎりのもの(=相関)にしかたしかなことは言えない」というもの。これまでの言葉で言えば感覚的対象または感覚的性質だけが哲学の対象であって。実在的対象についてはある/ないと言及することすら厳密性を欠いた素朴な物言いなのだ――と論敵たちは主張する。「思考できるのは思考された限りのものであって。思考の外に存在するもの(=実在的対象)を思考するって。矛盾してる」と。
 それにたいしてハーマンは「それは「思考」という言葉をまったく異なる2つの意味でつかってごっちゃにしてるだけ」と反論する。※5
 このOOOにとって重要だけどなかなかとらえるのがむずかしい論点は。VTuberを例にとればするりと理解できる。というのもVTuberこそ2つの異なる思考――アクセスでできてるから。

 剣持刀也の配信を見るとき。ぼくたちは剣持刀也の図像(=感覚的対象)を見る。そこでこの「見る」を「思考」や「アクセス」と言い換えてもいい。でもぼくたちは同時に剣持刀也の「魂」(=実在的対象)のことも配信中につよく意識したり考えたりする。たとえば犬が吠えたり。3Dモデルが奇妙なうごきをしたり。そんなときにはとくに。画面の向こうがわにはだれがいて。なにが起こってるのか。ってことに気をとられる。
 じゃ。剣持刀也の感覚的対象に対する「思考」と実在的対象に対する「思考」はおなじものだろうか? ちがう。それは情報量も把握の仕方もぜんぶちがう。
 剣持刀也の感覚的対象はぼくたちに与えられてる。それはどこも隠されてない。でも剣持刀也の実在的対象は退隠し隠され。でも暗示される。この2つのちがう「思考」をごっちゃにすることでようやく相関主義者たちの主張は成り立つ。つまりそういう考えはおかしい。ってわかる。
 VTuberの魂について考えることは「見えないものを見ようとする」ことに等しい。もちろんこれも「見る」という言葉を2つの意味でつかって(意図的に)ごっちゃにしてるのだけど。じゃ。なんでそんなことしたくなるんだろう?

VTuberはなぜ魅惑的なのか

なぜ魅力的ではなく魅惑的なのか。もちろん「魅惑」もまたOOOの言葉だから。
 VTuberはなぜ魅惑的なのか。OOOがそれをあきらかにする。
 ハーマンは実在的対象を説明する際にハイデガーの『存在と時間』における「道具分析」をもちだす。たとえばぼくたちはハンマーという道具をつかうとき。それが道具としてうまく機能してる限り――日常的に道具としてつかう大工さんはとくに――ハンマーそのものをとくに意識しない。道具の扱いに熟達すればするほどそれは手足の延長のように。あるいは空気みたいに意識されない存在になる。そういう道具の在り方をハイデガーは手許性という。
 あるときハンマーが壊れる。ハンマーという道具が壊れて道具としての役割を果たさなくなったとき。はじめてぼくたちはハンマーの存在をつよく意識する。かつてハンマーでありいまはハンマーとしての機能を果たせないハンマーだったもの。このもはやハンマーではないなにかを注視するぼくたちの感覚のなかに感覚的対象がうまれ。まじまじ見つめる。感覚のなか――意識の手前にあるその在り方をハイデガーは手前性という。
 ハンマーが道具として機能し手許性を発揮するとき。ぼくたちはハンマーを意識せず。たとえばハンマーの表面に傷があっても気にも留めない。そのときぼくたちはハンマーのすべてを汲みつくすことは決してなく。あくまで道具としての側面だけ利用する。
 ハンマーが壊れて手前性を発揮するようになってもそれはおなじで。ハンマーの表面の傷に気付いたとしてもそこで見てるのは感覚的対象でしかなく。「ぼくたちが捉えてるかぎりでの」ハンマーでしかない。※6
 でも。ハンマーが壊れて道具としての存在意義を失い。ハンマーとも呼べないただの物体になったとき。はじめてその存在感が意識される。目に見えてるそれは感覚的対象でしかないとしても。その奥にとにかくなにかが実在する。見えなくてもそれが暗示される。実在的対象がそこにある。
 そして感覚的対象がまとってたはずの感覚的性質――ハンマーの固さや黒さや持ち手の木目の感じ――が実在的対象のまわりを周回してその存在を暗示するそのさまをハーマンは「魅惑」とよぶ。

「清楚」という概念

ハーマンのこの「魅惑」のメカニズムをVTuberにも適用できないか。できる。
 多くの人気VTuberには彼ら彼女らが爆発的にヒットした「きっかけ」があることが多い。たとえば電脳少女シロはバトルロイヤルTPSゲーム『PLAYERUNKNOWN’S BATTLEGROUNDS』(PUBG)をプレイする動画(※7)において高いプレイスキルと「ここは初めて人をKILLしたので 聖地と呼びたい」と名言をのこし。これをきっかけに人気が急上昇した。
 さっきからたびたび名前の出る月ノ美兎は初回配信で映画『ムカデ人間』を観たことがあることを明かし。「サブカルクソムカデ」という愛称がひろまるなどムカデ人間がトレードマークのひとつになった。彼女のほかの(とくに初期の)トレードマークは。洗濯機のうえにMacBookおいてアタック(洗剤)の箱にiPhone立てかけて中腰という初期の配信環境から洗濯機や。小学生のころに食べてたエピソードから雑草(とくにクローバー)などがある。
 電脳少女シロ。月ノ美兎。彼女らに共通するのは「清楚系VTuber」と呼ばれること。そして清楚とはほどとおい言動によって爆発的に人気を得ることになったこと。じゃ。なんでそんなことに? たんなる「ギャップ萌え」ではとらえそこなってしまう「魅惑」をOOOは明かす。
 シロも月ノ美兎も。はじめのコンセプトは通常の意味での清楚なキャラクターだった。シロの初期の動画では(片鱗はでてるけど……)猟奇的な側面は表立ってはいない。月ノ美兎は初回配信からカッコつきの「清楚」ぶりを発揮してたけど初回配信よりまえに公開されてたプロフィールには「性格はツンデレだが根は真面目な学級委員」とあった。当初彼女らに期待されたキャラクターは清楚やAIやツンデレや委員長キャラといった属性の束で。キャラクターとしての機能をまっとうする(一般的な意味ではなく。ハイデガーやハーマンの言う意味での)道具だった。
 でも期待は裏切られる。属性は破壊され。壊れたハンマーみたく。道具性を失ったシロや月ノ美兎は「キャラクターでないなにか」として視聴者のまえにすがたをあらわす。ハンマーと同様。手許性から手前性へ移行する。そしてそのトリガーを引いたのは彼女たちのキャラクター(=感覚的対象)とはちがう。異質な実在的対象がわずかに露出し暗示される瞬間――つまり魅惑の瞬間だった。
 「清楚系VTuber」に限ったことじゃない。ケリンの絶叫や兄ぽこや首絞めハム太郎にシロイルカ。VTuberの魅力が爆発する瞬間にはかならずといっていいほどその実在的対象の側面がちらりとのぞく。そもそもVTuberはフルトラッキングや配信環境などのネット環境の不備。VTuber自身のわきの甘さや生放送配信など。道具としてのキャラクターの破壊要因につねにさらされてる。その破壊要因が炸裂し。失敗や不完全さが垣間見えるたび。あのなんともいえないVTuberの魅惑がうまれる。
 ここで 「ギャップ萌え」って安易な解釈に回収されないこと にOOOを通して考える利点がある。ギャップ萌えのギャップは属性と属性。キャラとキャラ。性質と性質の間のギャップであって。同じ水準の2つの要素のギャップでしかない。でもVTuberの魅惑は感覚の平面に実在が侵入してくる。異なる水準の衝突によりうまれる。たんなる差異とはちがうこの奇妙なギャップは。相関を超えた実在に手をのばす思弁的実在論以降の哲学者たちのちからを借りてこそとらえられる。

四方対象の上演

ただ。ここで立ち止まってみる。
 VTuberにおける配信者はほんとに実在的対象なのか。
 もちろんちがう。実在的対象はアクセスできない。ただ暗示されるだけ。でもVTuberの配信者は――VTuberの文脈では大抵の場合あきらかにルール違反だけど――アクセスすることは絶対に不可能ではない。(むしろVTuber同士なら配信者同士の対面があらたな物語を生むケースすらある)
 じゃ。結局VTuberはOOOにあてはまらないのか。それもちがう。そもそもあたりまえだけどOOOはVTuberを説明するための理論じゃない。その「魅惑」の概念は本来もっとひろいものを対象にしてて。じっさいハーマンは芸術を論じるときにOOOや魅惑の概念をつかったりする。
 なら。魅惑がVTuberだけじゃなくそもそもひとがなにかに惹かれたりすること一般の説明としてあるなら。そんな。ひとがなにかに惹かれる瞬間を――まるで演劇みたいに――再現する「上演」をVTuberはやってる。と考えることはできるんじゃない?
 演劇や映画の上演においておじいさんを演じる俳優はおじいさんである必要はないし。男性を女性が演じたり女性が男性を演じることもある。なら。たとえVTuberにおける配信者がほんとに実在的対象じゃなかったとしても。その位置を演じ。感覚的対象とか感覚的性質とかとの関係を上演することは不可能じゃないはず。
 つまりVTuberはぼくたちを魅惑してる。だけじゃない。
 魅惑は世界のあらゆるとこで起こってて。でもふだんは気付かないその魅惑の構図や構造をVTuberは上演し思い出させる。この「メタ魅惑」とも呼ぶべきふるまいこそがVTuberに惹かれるぼくたちのなかでおこってることなんじゃないの。
 だとすれば。これまでと逆に。VTuberに関する洞察からOOOへフィードバックを返すこともできるかもしれない。

代替因果と配信者

実在的対象は退隠してアクセスできない。ならそもそも実在的対象と実在的対象はいったいどうやって関係できるっていうわけ? って疑問は的を射てて。じっさいりんごを包丁で切るとき。りんごの実在的対象と包丁の実在的対象はなんの関係もしないしいっさい触れてもないのかって言えばとてもそうは思えない。
 もっと重要なことにじつは実在的対象のひとつの代表格は《このわたし》で。たとえばあなた。この文章をよんでるあなたはいまちょうど「ど」を読みおわったとこだけど。その《あなた》こそが実在的対象でもある。つまり物理的に存在する人間としてのあなたってより。視界があってなにかを見たり感じたり読んだりする 《このわたし》 = 《あなた》 。 《あなた》 もやっぱりほかの対象と日常的にふれあって関係してるはずだ。
 そういう実在的対象同士の関係――とくに因果関係をどうやって説明するかってのはもちろんOOOを考えるうえで課題になりうる。
 ただここに関してはやっぱりハーマンは答えを出してる。VTuberと視聴者の関係を例に説明してみよう。
 さっき説明したように 《このわたし》 = 《あなた》 である視聴者も実在的対象で。VTuberにおける配信者も実在的対象。そして2つの実在的対象=視聴者と配信者はたがいに隔てられてる。視聴者はVTuberの図像は見れても配信者の姿は見れないし。VTuberも(そういう企画だったり準備をしない限り)視聴者の姿は見えない。見えるのは視聴者からのコメントだけ。実在的対象はたがいに退隠しアクセスできない。
 でも視聴者はVTuberの図像は見れるし。VTuberは視聴者からのコメントは見える。視聴者は見えてるVTuberの図像やきこえる声に反応してコメントし。とくに生放送配信なんかの場合にはVTuberはそのコメントひろって反応返したりする。
 つまり実在的対象(=配信者/視聴者)同士は隔てられてるけど互いの感覚的対象(=キャラクターの図像/コメント)は見えるので。感覚的対象(キャラクターの図像)→実在的対象(視聴者)→感覚的対象(コメント)→ 実在的対象(配信者)→ ……って間接的な関係は成り立ってて。これをハーマンは「代替因果」とよぶ。

「これがバーチャルYouTuberなんだよなぁ……」

ただ。この説明はツッコミがくるかもしれない。問題は2点ある。まずハーマンは代替因果について(すくなくとも『四方対象』では)実在的対象と感覚的対象の組は出しても「感覚的対象→実在的対象→感覚的対象→ 実在的対象→ ……」みたいな関係の連鎖は出さなかったはずだし。「代替因果」の説明のなかで重要な「関係が対象を生みだす」ことにも言及できてない。
 ただぼくはここにこそVTuberに関する洞察がOOOにほんのちょっぴりでもなにかをつけ加えられる余地があるんじゃないかと思う。VTuberについて考えると代替因果の説明であまりみられない関係の連鎖が浮かぶのは。VTuberがOOOに合わないからじゃなく。OOOにつけくわえられるものをもってるからなんじゃないか。

 思い出そう。月ノ美兎はキャラクターの図像を消して。 「キャラ捨ててクソゲーとったぞこいつ」という視聴者のコメントに対して「これがバーチャルYouTuberなんだよなぁ……」という名言をのこした。ここではまさしく感覚的対象と実在的対象がたがいちがいにあられる関係の連鎖がおこってる。そしてまえに書いたとおり。ここで行われてるのは感覚的性質の操作による実在的性質の探査――形相的変更だった。
 ほんとに?
  「感覚的対象→実在的対象→感覚的対象→ 実在的対象→ ……」 と単純に書いてるけどここで起こってるのは「感覚的対象(図像)がかわって」→「実在的対象(視聴者)がその影響を受けて」→ 「感覚的対象(コメント)うって」 ……っていう変化の連鎖で。じゃ変化ってなに。っていうと。それは性質の付け替え。
 たとえば月ノ美兎がウィンクすると。感覚的対象は月ノ美兎のまま。そこにひもづく感覚的性質が「ひらいた目」「ひらいた目」のペアから「ひらいた目」「とじた目」のペアに変化する。感覚的対象は変わらずに感覚的性質が変化・付け替えられる。でもそれは感覚的性質だけなのか?
 性質のなかでもとくべつな。月ノ美兎を月ノ美兎たらしめる実在的性質。それは直接アクセスできず。だから感覚的性質を変化させつづけてどこで月ノ美兎が月ノ美兎じゃなくなるか観察する形相的変更によって探査できる――でも実在的性質はそもそも不変なのか?
 図像を消しても月ノ美兎は月ノ美兎で。だから月ノ美兎の図像がもつ性質はどれも実在的性質じゃない。そう結論づけるのは早計かもしれない。
  っていうのは。たとえば月ノ美兎が初配信の時点で図像を消してたら。それは「これがバーチャルYouTuberなんだよなぁ……」の瞬間と同じ意味をもっただろうか。そもそも。その瞬間を目撃したひととしてないひとのあいだで。月ノ美兎の実在的性質は一致するだろうか?
 キャラクターの月ノ美兎の図像を消して「これがバーチャルYouTuberなんだよなぁ……」とうそぶく。その行動は実在的性質の探査なんかじゃなく。実在的性質の「変更」なんじゃないか?
 代替因果のなかで感覚的性質だけじゃなく実在的性質の付け替えも起こせるなら。しかもそれが実在的対象(配信者)の意志で――完全にコントロールできはしないにせよ――変更可能なら。感覚的対象(コメント)から影響を受けた実在的対象(配信者)が感覚的性質・実在的性質に作用することで視聴者にとっての感覚的対象(図像)に手を加える。って流れが説明できる。
 つまり 「感覚的対象→実在的対象→感覚的対象→ 実在的対象→ ……」 っていう関係の連鎖をOOOにつけくわえられる。

 もっともそれもまたじつはOOOにもう含まれてるのかもしれない。ただ。すくなくとも『四方対象』の時点では――含まれてるにせよ――そこを説明するための例はあまりうまくいってないように感じた。だからぼくはおせっかいにも。そこにたとえ例をちょっとだけ。だったとしても。VTuberで付け加えられるんじゃないかと考えた。
 おなじことを代替因果の 「関係が対象を生みだす」 に対しても行ってみて。この話を閉じよう。

VTuberでできてる

実在的対象同士は互いに退隠してアクセスできないけど。実在的対象と感覚的対象はふれられる。そして実在的対象と感覚的対象が関係を結ぶとき。その関係が(実在的対象と感覚的対象を含んだ)実在的対象を生みだす。とハーマンは言う。
 だけどこれだけじゃやっぱわかりにくい。そこでオススメしたいのがVTuber。
 まえにも書いたとおり《このぼく》も実在的対象で。たとえば《このぼく》がミライアカリの動画を見るとき。キズナアイの動画を見るとき。名取さなを見るとき。道明寺晴翔を見るとき。 《このぼく》という実在的対象はミライアカリやキズナアイや名取さなやハルカスやウビバの感覚的対象と触れる。
  《このぼく》(=実在的対象)とウビバ(=感覚的対象)の関係があたらしい対象になる。ってのはわかりにくいかもしれないけど。もっと劇的な瞬間ならどうだろ。
 たとえばシロの「キュイ」って笑い声を聞いた瞬間の 《このぼく》とその声の結びつき。
 たとえばバーチャルのじゃロリ狐娘Youtuberおじさんの存在をはじめて知ったときの衝撃。
 たとえば「わたくしで隠さなきゃ」と増殖する月ノ美兎をみて爆笑したときの《このぼく》。
 そういう決定的な瞬間のVTuberとそのときの《このぼく》の結びつきなら。対象化してたとえば思い出すこともできる。
 そうやってできた対象がまたほかの対象と関係を結んでまた対象がうまれて。をくりかえして。ぼくができあがる。
 そのはずだ。ぼくという対象もまたいくつもの対象を部分として含みこんでできあがってる。対象が対象を含む入れ子構造。代替因果はそうやって機能する。そうやってぼくは。物理的な構成要素だけでなく。輝夜月をみる 《このぼく》 。もこ田めめめをみる 《このぼく》。もちひよこをみる《このぼく》。おはガクをみる《このぼく》。ぽんぽこ24をみる《このぼく》。無数のぼくでできあがってる。じゃなきゃこの文章も書けない。
 でも無数の《このぼく》が《このぼく》の部分なんてことがありえるのか。《このぼく》が部分であると同時に全体であるなんてことが? もちろんない。つまり部分としての《このぼく》とそれで構成される《このぼく》は似てるけどちがう。
 いまの《このぼく》は「ヒメヒナをみる《このぼく》」を含むけど。「ヒメヒナをみる《このぼく》」は「ヒメヒナをみる《このぼく》」を含まない。あたりまえだ。感覚的対象と関係を結んではじめて対象があらたにうまれ。それが一部になるんだから。
 つまりぼくを構成する無数の《このぼく》は過去の《このぼく》だ。でもそれは実在的対象なのか? いま思い返す思い出のなかでは過去の《このぼく》ですら平板化されて感覚的対象でしかないのでは? それは半分あってる。
 思い出せ。実在的対象同士は退隠して触れあえない。たとえ過去の自分であっても。それが実在的対象である限りそのカリカチュアである感覚的対象にしか触れられない。つまり過去の《このぼく》はもはや実在的対象じゃないんじゃなく。実在的対象だからこそ退隠して見えない。でもそれはあるし。それはぼくの部分としてぼくを構成してる。
 さて。あらたな観察がうまれた。過去は時間の経過によって消えるんじゃなく。見えなくなる。そのことすらOOOの「退隠」によって説明できてしまう。そしてそんな観察はVTuberに魅惑された数々の経験からくる洞察によってうまれた。

 ぼくたち素人にとって哲学とはなんだろ。どう接すればいいんだろ。ってたまに考える。
 教室で授業受けるみたいに「正しい」話を一方的に受け取ってればいいのか。
 どーもそんな感じしなくて。やっぱつかってなんぼだろ。って思う。
 この文章はたぶん蛮勇だ。
 でもそれでいい。
 それがなかったら考えもしなかったことを考えるためにわかってるかどうかあやしい哲学にふれてるつもりだから。誤解して誤読してでも。つかわないと意味ない。
 でも「それがなかったら考えもしなかったことを考える」ためにつかえるのは案外哲学だけじゃないかもしれない。
 VTuberはいろんなこと考えるきっかけに。げんになってる。
 まだまだあるはず。いろんな使い道が。だからオブジェクト指向VTuber論はこれでおわりじゃなくて。もっとほかにも書ける。どこかでまたこのつづき書きたいし。だれかがこのつづき書いてくれないかなとも思う。
 ともあれ。おわりじゃなくてひとやすみ。
 つーわけで。どっかのVTuberのいつかの配信のコメント欄とかで。
 また。あいましょう。
 
 
 

 





※1 オブジェクト指向存在論を絡めて Vtuberについて論じるなら。先行例の存在は触れておくべきと思う。
 先行例として批評再生塾第3期 最終課題における灰街令によるキャラジェクト論がある。(https://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/akakyakaki/2748/)
灰街は「メディウム(その表現を支える媒体)を身体として強く前景化させながらそこにありありと現前するキャラクター」という在り方を「キャラジェクト」とよび。その例として『BLAME!』、『宝石の国』などの3DCGアニメ作品やVTuberを論じながら「キャラジェクト」という概念に迫ってく。そこでは主にゼロ年代に繰り広げられたキャラクター論となにがちがい。なにが新しいのか。といったことが語られている。
 本論の関心はこうした灰街のキャラジェクト論と部分的に重なりつつ。すこしずれた方向にいってるつもり。っていうのは3DCGであることではなく。VTuberがVTuberであることそのものとOOOの関係を考えてみたい。

※2 といって。そのなにかを神秘化したくてこういうことを言ってるわけではないことに注意。そうじゃなく。たとえば絵の具の集合って言うけど。その絵の具がそもそも「となりあって」たり「つながって」たり。あるいは赤と白の「差異」やそれが発生する仕組みをどうやって説明するわけ? といった「集合」という言葉で誤魔化されてる要素を考えることで統一的対象がたんなる集合を超えてると考える必要が出てくる。

※3  https://www.youtube.com/watch?v=_rmWAyNODsc

※4 ただし注意が必要なのは。現実の身体が実在的対象。ではないってこと。たとえば生身の人間と直接向かい合ったとして。そのときぼくに見えてるのはやっぱり感覚的対象に過ぎない。おなじくVTuberにおける生身の身体も実在的対象であるというよりは実在的対象と同じ位置にいる。このことはのちに「上演」として説明する。

※5 『四方対象』でいえばp.97~109あたり

※6 ただしこの部分(手前性もまた対象を汲みつくせない)はハイデガーの主張というよりハーマンによるハイデガーのラディカルな読み換えであることに注意

※7 https://www.youtube.com/watch?v=d5yVgYC-ao4

※8 存在しない※8への注釈はつまりこの文章全体への注釈で。つづきでもある。はじめに(おわりに)言っとくとこの文章はかなり不完全。数ヶ月かけて書いたせいで情報がいくつか古いし。VTuberの観測範囲もかなり偏ってる。ただそれでいい。これはあくまで開始。VTuberを説明するうえでOOOの有用さを示したあとこそ大事で。このあとだれかが(または自分が)不完全な部分を補ってくれることをいのる。今回出さなかったアイデアもいくつかストックしてる(たんにすでに長すぎるので出せなかったというのもあるけど……)。たとえばOOOにおいて人間が特別扱いされずほかの対象と同じようにあつかわれる部分については今回言及すらできなかったけど。VTuberにおけるトラッキングはそこと関係しそうだ。とか。とにかくあたらしいことをかんがえたり思いついたりするのにVTuber×OOOという組み合わせはなかなかいいと思うし。これからも考えていきたい。あとさいごに文体についても。今回けっこうくだけた口調によせたつもりで。そこに違和感を感じてもらえてたらうれしいつもり。つまり道具がうまく機能せずこわれた状態を肯定する話を。「相手に意味を伝える」道具としてうまく機能したままの言葉で語るのはどうかなって。思ったので。この文章自体が「魅惑」してればいちばんいい。

投稿者:

名倉 編

名倉編(なぐら あむ)。アナグラムのアナグラム。または 三三三三(みとり さんぞう)。第58回メフィスト賞受賞作『異セカイ系』発売中! 言葉遊び大好き人間。ゲンロンSF創作講座第一期受講生。

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